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毎日新聞、日曜日の朝刊2面の「時代の風」欄に
タイガーマスクの伊達直人を語った寄付現象が起こっていることに対し
精神科医 斉藤環氏による的確と思う分析が載っていましたので
一部をご紹介します。

前略、
(このタイガーマスク現象を)心温まるニュースとして歓迎する声がある一方で、
どこかで偽善のにおいがして手放しで喜べないとする意見もある。
しかし、こうした流行に対して「善意は正しく使うべきだ」といった正論を
ぶつけてみてもしかたがない。
たとえ、そこに自己満足や相手への配慮不足がみてとれたとしても、
人には悪意と同じくらい、やみくもな善意への衝動がある。
そう、偏った形でしか発揮され得ない善意というものがあるのだ。
中略
今回の現象で特異だったのは、当初の「伊達直人」からキャラクターがどんどん
拡散し、多様化していったことだ。
そのリストとしては星飛雄馬やアンパンマン、ディズニーやジブリ作品の登場人物、
キャラの立った戦場カメラマンなどの名前が連なる。
これは果たして「匿名の善意」なのだろうか。
むしろ、「キャラの善意」と考えるべきでないだろうか。
中略
個人名でのランドセル寄付は、どこか気恥ずかしい。
もし報道されたりしたら、世間にはやっかみ半分でたたく人も出てくるだろう。
だから実名は出したくない。
さりとて匿名では寄付の事実が埋もれてしまう。
どうせなら自分の善意になんらかの形を与え、痕跡を残したい。
そのように考えた時、「伊達直人」というキャラになりきることは、
実名と匿名のちょうど中間の選択として、まことに格好のアイデアだったのだ。
キャラは必ずしも「匿名」ではない。
少なくともメディアやうわさの中では「あれは自分だ」という同一性が保たれる。
中略
それでは「キャラの善意」はやはり「偽善」なのだろうか。
中略
それは直接には自己満足につながらない。
個人と公共を媒介する存在としてのキャラは、集合的な存在でもあるからだ。
中略
善人ではなくキャラを装うことで、善意の純度はむしろ高められるのだ。
中略
おそらくこの現象は、一過性で終息するだろう。
ここで「継続が大切」とか、余計なおせっかいを言うつもりはない。
ただ、これだけは言える。
小さな善意の表現形式として日本人ならではのナイスな「発明」だった。
そのことの価値は誇っていい。
(中略の中でこの現象がネットやマスコミ報道により次第に「祭り」化していった
ことを分析されていました。)
だから祭りは祭りとして迷惑をかけない程度に楽しめばいいし、
楽しんだら忘れてしまってもいい。
でも、また年の瀬がめぐってきたら「伊達直人」には帰ってきてほしいものだ。
終わらない祭りはないけれど、祭りは毎年くり返されるのだから。

(実はこの論評のタイトルは「タイガーマスク運動」となっていますが
このブログでの取り上げ方として、ボクは「運動」ではなく「現象」と思うので
「タイガーマスク現象」として取り上げてみました。)

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