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7月末は、KBCシネマで「だれも知らない建築のはなし」、
NKSアーキテクツの熊本・壺川の住宅見学
佐賀県立美術館での吉岡徳仁による「トルネード展」と催しが満載でした。

(このポスターの一連の有名建築家たちによる迫力ある素顔は、
たけしのアウトレイジのようなうさん臭さみたいだとの指摘も—-)

「だれも知らない建築のはなし」は現代日本建築の70年代以降の動きとこれからについて
建築家石山修氏の長女である石山友美氏の監督によるドキュメンタリー映画。
70年代以降の磯崎新を中心としたポストモダニズムの世界的な視野での評価と批判や
現在の日本建築界を牽引する安藤忠雄、伊東豊雄らに対する
海外の建築家たちの評価など、我々が建築の学生だった頃以降の話が中心で
懐かしく興味深かったのですが、意外と難しく若い人たちには理解できたでしょうか?

この中に出てくるすべての建築家名を
建築を志している20代で知っているならばその人はかなりの勉強家、
30代で半分しか知らないなら建築家としては重症
40代で半分ならば、あなたの才能は実務にあるかもしれません
50代で2/3なら、創っているものはさておき、
同年代としては厳しい評価になるかもしれません。

建築家として社会とどのように繋がっていかなければならないのかという自問自答
スターアーキテクトとしての苦悩をもっとも意識している伊東さんが語り、
震災以降様々な取り組みを行っていることに対し
一時的な自分の中のはけ口だとして冷静に批判するコールハース。

この映画は基本的には磯崎さんにスポットを当て、彼が果たした役割、功績についてが
メインになっているように思います。
我々も学生時代に相当な影響を受けるとともに1975年に出版された
彼の著書「建築の解体」は建築の学生のバイブルとして読み漁ったものです。
また、チャールズ・ジェンクスの「ポスト・モダニズムの建築言語」は1978年のa+uの
臨時増刊号で紹介されました。
いずれも多感な学生時代とオーバーラップしており
建築の領域を拡大させるかれらの知的試みに対し、
自分の能力ではすべてを理解することができず、
建築というものが非常に哲学的で難しいものでどうしようかと思ったものでした。
当時の建築学科の学生は
建築家とは磯崎さんのように難しい言葉で建築を語れないとなれない職業だと思い、
大半が諦めていったでのではと思います。
ボクは鈍感でしつこかったからこの仕事をやれているのかもしれません。
それに日本の建築を底上げするには地域に根差した建築家が
増えることが必要だと思っています。

前衛とは未来に向けて新しい世界を提示しながら開拓していくことであり
磯崎さんは9割の人が評価しなくても1割の人が評価してくれればよいと
以前どこかの対談で語られていました。
そういう意味ではあらゆるところからの批判・批評に対し、論理的に戦える知性を
必要とするものでタフでなければやれません。

この映画の公開記念トークショーにおいて
若手建築家の藤村龍至が面白いことを述べていました。
「マルチメディア工房(1996年竣工)の階段に関する妹島和世さんの説明で
階段がなぜひとつはまっすぐで、ひとつはカーブしているのか?
これについて妹島さんは必要な天井高を取るためと説明したんですね。
もしこれが80年代だったら
意味を失った虚構としての柱を打ち立てることで、都市の虚構性を暴き出す—-(会場笑)
といったような説明になるところです。95年以降、すごく即物的になった。-----」

これは70年代以降の磯崎を代表とする建築家たちの言動を非常に面白く
言い当てていると思います。
 
ただこれまでやってきた前衛というものに対し、柳瀬さんがよく語られている
建築とは社会性を持った芸術という言葉が示しているように
社会から遊離した前衛では虚しさしかないという反省も
この映画では語られていました。

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