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全ろうの作曲家としてメディアに取り上げられていた佐村河内氏の
ゴーストライターの方の記者会見をネットで拝見しました。

ぼくらモノづくりを行っている立場として捉えた場合、
建築における建築家は、仕事を取ってくるプロデューサーの役割と
それを実現させるプレイヤーとしての役割の二つの役割をこなしており
相手にアピールする能力や建築の機能・デザインをまとめる能力
スケジュールを管理する能力、工事金額を詰める能力、施工を監理する能力など
オールラウンドプレイヤーとして多岐にわたる仕事をこなせる資質が必要になります。
それを経験を積みながらステップアップさせる努力が必要です。
また、一級建築士という資格はプロデューサーの役割は別として
それ以外の役割をこなせる能力があるということを証明するものとなっています。

ただ資格を持っていても仕事を取ってくる能力が不足している場合、
時に建築デザイナーという資格を持っていない人の下請けをしながら
フォローしている人もいます。
相手の書いたスケッチプランを構造を考慮しながらCADによって図面化し
建築基準法上問題ないかチェックをします。
また、いろいろなデザインについて施工者が施工できるようにディテールを
詰めたりします。

この部分においては、今回の佐村河内氏とゴーストライターの関係に
似ているように思いますが、モノづくりを結果として完成させるためには
常にイニシアティブを持っている人間が最後までその過程に関わることによって
完成度の高いモノが生み出されることになります。

今回の件は、企画書(コンセプト・デザイン)なるものが
プロデューサー的役割の佐村河内氏から出され
そのイメージに基づき作曲家が旋律(空間)を考え構成を行っていく作業をし
記譜化(図面化)をしているということですが
本来、全ろうが本物であった場合、どうやって出来上がったものの確認・調整・修正を
行うことができるのでしょうか?

普通に考えるとそう思ってしまうことも天才という言葉に惑わされたのかもしれません。
でもベートーベンが聴覚を失っても作曲活動ができたと言え
ほとんど実績のない彼が聴覚を失ってできるなどあり得ないと
今だと思ってしまいます。

また、企画書のみで旋律を考えないということを建築に置き換えると
空間を考えない建築デザイナーはあり得ず、
かれは音楽家ではなく音楽プロデューサーとしての立場をもっと自覚していれば
良かったのだと思います。

かれが全ろうであることをあくまで主張されるのであれば、作品の確認・調整・修正は
すべてゴーストライターに任せていたということになり
それはほとんど彼の作品として成立せず、
それを自分の作品だと偽っていた責任が出てきます。
また、作品の確認・調整・修正に関わり
ゴーストライターとの共同作品を主張されるのであれば
全ろうではないことの釈明をされるか
全ろうでありながらどのような方法で調整を行ったのか説明される必要があります。

どちらにせよマスメディアを巧妙に騙し利用して虚像を造り上げた点において
社会的責任は非常に大きく、毎日モノづくりに一生懸命真剣に取り組んでいる者にとって
全ろうかどうかという問題よりも作品との関わり方について強い憤りを感じます。

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