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きのう、自宅で昔の建築の本を読んでいる中で
隈研吾が2001年に語ったインタビューにおいて的確な指摘をしていた
記述がありましたのでご紹介。

最近の若い建築家は、戦後の建築家が取ってきたスタンスとは随分、違うと思います。
雑誌に作品を発表して最終的な形態で競うのが西洋的な建築家の情報発信の仕方
だとしたら、いまは普通さを競っていて、作家同士の違いもほとんどない。
むしろ個人的形態を「ダサい」と思い始めているので、グループ、いわゆる、
ユニット派が成立する。
ユニット派はまさに俳句みたいなものですよね。
微妙な差異はあるけれども、基本的にほとんど同じトーンのものをグループで
つくるわけで、そういうつくり方がこれから間違いなく主流になるでしょう。

情報化社会では情報の密度がものすごく濃くなります。
世界全体がムラ化すると、わずかな差異をみんなが認め合い、そこに価値を見いだす。
それを情報で何倍も増幅しながら楽しむような俳句的つくり方が、
建築の世界で広まっていくでしょう。

(このあたりの捉え方が昨年の木村松本氏のオープンハウスでボク自身が感じたことと
同じような気がするのですが-----—-。2001年の段階ですでに予見されている
ところが凄いと思います。)

情報の密度が濃いムラ社会をどう泳ぐかが各人に求められるわけです。
メディアもたくさんあって、情報要素が多元的になると、リアクションの取り方も
以前の雑誌社会とは違ってきます。
建築家の社会とのかかわり方のスタンスにも、もっと多様性が出る予感がします。
既に、建て売り住宅をやったり、建材をネットで販売する会社を始めたり、
リノベーションに特化している人が出ていますね。
こういう多様性は昔の建築界では考えられませんでした。
昔は雑誌で注目を集めるような建築家になるためのルートは限られていて、
なにかコンペを取って話題作を提供し、雑誌に取り上げられていくという道しか
ありませんでしたが、そのルート自身が相対化し拡散しています。
その意味で各人は自由になったが、雑誌の側から見ると、雑誌の影響力が落ちて
困っている状況のような気がします。

中略

安藤忠雄さんは複数のメディアと付き合っていますが、安藤さんの場合は
安藤ブランドの作品が各メディアに顔を出します。
一つのブランドの「作品」を建てることで社会とかかわるのが安藤さん以上の世代
だとしたら、僕はメディアとはいろんな接点がつくれると思っています。
ブランドを確立する必要はありません。
自分のブランドがないと何もしたことにならないという在来型の建築家のかかわり方だと
社会と接点が持てないという以上に、無用の存在になる危険すらあります。

中略

建築をやっている人間は、社会と多様な回路を持てる頭脳構造をしていると思います。
ギリシャの時代から、建築家はいろんな技術の統合者だと言われてきました。
ところが、作品を発表する形でしか社会と回路を持てなくなってしまった。
奇妙な格好の建築を発表して自己主張する変な人たちだ、
と思われるまでになってしまった。それが20世紀だったのではないでしょうか。
21世紀は、レムみたいに世界的な資本と対峙するような派手なことをやる人も出るし、
草の根的なネットで情報を発信する人もたくさん出るでしょう。
一見、派手な人も、一見、地味な人もチャンスは同じだと思います。
建築家はいろんな回路で社会とかかわれる人たちだということを
もう一度、社会に発信して建築の名誉を回復しなければなりません。

(福岡の若手建築家からよく聞く社会性という問題も過去や現在における批判を
明確にされると問題提起の共有ができると思うのですが-----—。)

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