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実は、このプロジェクトの経緯についての知識は事前に入れておらず
菅原さんという女性の存在も知らぬまま訪れ、
最初は管理人のおばちゃんと思っていたのですが
おはなしを伺ううちに只者ではないということがわかりました。
福岡に戻ってから、そういえば、半年以上前にミスターフローリングの平安さんから戴いた
伊東豊雄氏の「あの日からの建築」という本のことを思い出しました。

その時は伊東さんの写真を見て、
スタッフに「伊東さん、ジャガー横田の旦那の木下に似とうよねえー!」と見せて回り
全然読んでいませんでしたが-----–。

さて建物の中に入ってみると約8畳ぐらいのスペースにイス兼用の
丸太を輪切りにしたテーブルが中央に置かれており3畳くらいの小上がりと
キッチンがあるぐらいのコンパクトな広さになっていました。

菅原さんから出して頂いたコーヒーを飲みながら「あなたがたは建築の方でしょう」と
聞かれうなずくと「昨日も、妹島さんの知り合いがスイスから来られ、
自分が行けなくなったので平田くん案内してと言われ、平田さんが2名のスイス人を
連れて来られました。」と言われ
実は昨年のビエンナーレ金獅子賞受賞後、
世界中から何千人という建築関係者が来られ、
その応対で疲れたということを言われました。

そうしたなかでの突然の来訪で申し訳なく思いながらも
ここにこの建物が建ったきっかけについて尋ねると
震災後の避難所での生活からのはなしを伺うことができました。

突然の体育館での避難生活は
物資の不足、お風呂の問題、毎日のようにいろいろな問題があがるなか
まとめる人が必要だということで最初は、
男性の方で肩書を持たれた方がなられたそうですが
毎日のように来られるボランティアの方々に対する割り振り
毎日新たにあがってくる要望、問題に対し対応できなくなり
それまで男性を立てながらやってきた自分がみんなから言われ
まとめ役をやることになったそうです。
当時避難所では500名近くの人々が生活されており、
その方々をまとめていくことは並大抵ではありません。

(あらかじめ用意された組織の中で仕事をしてきた実績があっても
ゼロから組織を立ち上げる労力は別物で、もしかしたら別の才能が必要だと思いました。
後から、伊東さんの本で知ったことですが
菅原さんは震災前は理髪店を営まれていたようで
非常時に際してこの方にもともと備わっていた何かが発揮することになったのだと思います。)

やがてようやく仮設住宅ができ、避難所からみなさん移られましたが
やっと畳の上で足も伸ばせ、お風呂にも入れ、エアコンも付き
取り敢えず落ち着かれる所に住めるようになったにも関わらず
避難所での生活に比べ、みなさんが寂しいと訴えてくるようになったということでした。

そこでみんなが立ち寄れる場所を造ってあげたいと思うようになられ模索されている時に
同じようなことを考えられていた建築家の伊東氏に出会われたようでした。

「みんなの家」のプリミティブな形状は、一見して乾、藤本、平田の3人の建築家の
思考において藤本氏の意向が強く出ているように感じられたので主導は誰だったのか
聞いてみると、菅原さんははっきりと平田氏だと言われました。
海水に浸かった杉の木19本を選んだのも彼だったそうです。
ところが戴いた「みんなの家」の設計過程を記録したパンフレットを後で見てみると
3人の原案モデルの中において藤本壮介氏のモデルがすでに柱が林立する
プリミティブな形状で表現されていました。
どちらにしてもこれまで経験したことのない高いレベルでの共同作業だったのだと思います。

(左より平田案、乾案、藤本案)

菅原さんは震災が色んな人の意識を変えたが、中でも伊東氏は、
より高い意識のレベルになられたと言われていましたが
そう言う彼女自身もたぶん昔の彼女とは次元の違う領域に
入られたのではと思いました。
震災という未曽有の災害に対し、それが人の意識を変える大きなきっかけになっていると
話す彼女はあくまでとても前向きな方でした。

1時間近くお話を伺いながら現在の復興の状況などもっといろいろ聞きたかったのですが
旅先での予定もあり陸前高田を後にしました-----—。

ご支援のお願いについてはhttp:/rikuzentakataminnanoie.jimdo.com/

隣町の大船渡市へ向かう途中のリアス式海岸の風景は素晴らしく
この美しい自然を残しながら復興されて欲しいという気持ちになりました。

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