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2011.04.25

見える

昨日、先週放送され録画しておいた「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」を見ました。
映画版になったこの作品はDVDでも借りてみましたが、
後編は何度見ても感動します。
いろいろな意見があると思いますが
原作が漫画だった「のだめ」もテレビ版を経て、とうとうここまでの高みに達したかと
思うと侮れないものを感じます。
かつて音楽を描いた映画でここまで音楽を志す若者達の内面の葛藤を描いた映画が
あっただろうかと思います。
映画版では本来漫画の持っている軽さを
劇場映画としての映像表現では有り得ない形でうまく散りばめながら
芸術と愛に苦悩する二人の関係や内面を
挿入される的確なクラシック音楽で表現し
さわやかに描ききっているところに感動します。

音楽の世界では、演奏における修練を積むための
指導者の存在が非常に大きいように感じられます。
「のだめ」ではオクレール先生からいくつもの課題を与えられながら
先が見えない不安にさいなまれるところがあります。
どんなに課題をこなしてもコンクールに出る許可を与えられず、
焦りと不安の中、竹中直人扮する高名な指揮者シュトレーぜマンによって
見出された彼女は彼のオーケストラとの共演でデビューします。
突然のデビューを知ったオクレール先生は困惑し、つぶやきます。

「あの子はあと少しでほんとうのピアニストになれる筈だった。
ほんとうのピアニストとは、音楽とともに生きる覚悟を決めることだ-----—。」

音楽を楽しく、天衣無縫に表現してきた「のだめ」
芸術としての音楽を十分な基礎と解釈の修練によって求められる「のだめ」
彼女は、愛する千秋との競演という早い結果を求めて焦り、
苦悩します。

指導者とは、表現における創造的な能力と卓越した分析力の両方を持った人と
自分自身には創造力はないものの卓越した分析力をもった2者に分けられ
さらに教育的指導能力が高いかどうかということになるでしょうか。
どちらにしても「見えている」人のことだと思います。

懸命にあがいている者には見えないのに、かれらには見える。
それは二次元を三次元から見ているのと同じかもしれませんが
創造する者が彼らのようになるためには、
分析力、解釈力を高めないとなれないだろうと思います。
少しでも上に上がれば次第に回りを見下ろすことができるようになるのは
なにも空間知覚だけに当てはまるものでもなく、
全ての分野における物事の極め方として共通する比喩であろうと思います。

また、分析力、観察力を高めるためには
基礎力をしっかり身に付けることが必要なんだなあと
「のだめカンタービレ 最終楽章」を観て思ったのでした-----—。

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