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本日、当アトリエの元スタッフでソルト設計の西岡さんより
野間大池のオープンハウスの案内を受け観て来ました。

建物はエントランスと車庫が地下でその上に直方体の平屋が乗っています。
プランはその直方体を9分割したシンプルな構成で9分割の中心が
ホールになっており地階からの階段と繋がっています。
中心にあるホールからは各室へアプローチできるようになっており
内部空間はプランから受ける印象と変わり(プランからは想像できない)
奥行きのある空間が拡がりを持って展開しています。
開口部はそれぞれの場で位置及び大きさが効果的に抑制されており
薄めのライトグレーに塗られた少し粗目の塗り壁の素材が
開口部より入ってくる自然光をグラデーション状に和らげ、
影の存在を感じさせます。
 

また、天井の構造材としての梁組が区画ごとに方向が変えられており
微妙なリズムを生み出しています。
たまたま、ガットの吉浦君も観に来ており、ルイス・バラガンのようだと
賛辞を送っていましたが、確かにそのような印象も受けました。
ただ、バラガンよりも開口部回りには繊細なディテールが施されており
ディテール的にはミニマムで洗練されています。
この建物は犬と猫と暮らすための住まいとしてペットとご夫婦の気配を
考慮することがテーマになっており空間の奥行きや空間デザインに対して
説得力のある必然性を感じました。
これまで西岡さんにはかつて仕事の仕方を教えたものとして
彼女が造るものに対して厳しく接してきましたが
この住宅はうまい!の一言に尽きます。

(洗面スペース壁のブラケットとタオル掛け)
(スイッチプレート)

2018.05.16

16年目の決意

先月、北九州市八幡西区に住んでおられる方よりご自宅の建て替えにについての
お問い合わせのお電話を頂きました。
その後、アトリエにご夫婦で面談に来て頂きお話を伺ったところ
ボクが16年前に八幡西区星ヶ丘に設計した住宅「HOUSE F」が
当時、生協の雑誌である「CLIM」に対談インタビューで掲載されたのを
ご自宅が大手ハウジングメーカーに頼まれまだ10年しか経っていないなか
興味深く読まれ、その後、ボクのオヤジギャグ?を含んだブログを
定期的に読まれていたようでした。
どうやらご夫婦ともボクと同世代のようで
昭和の香り(どんな香りかわかりませんが)がするボクのブログに
共感を持たれておられたようでした—-。
久しぶりに同世代からの有り難いはなしで
今回、お子さんたちが各々独立されていくなかでお二人を中心とした
お住まいをテーマに思い切って建て替えることになられ
定期的にブログを書き綴っているボクに白羽の矢が立ったようでした。
ご予算も限られていますがこのプロジェクトを同世代同志として
一緒に頑張りたいと思っています。
          
フランソワ・トリュフォーの映画「隣の女」も観ましたが
最後の結末にびっくり!
その時に以前観た映画の終わり方に似ていると瞬間思いました。
最初はどういう映画だったかすぐには思い出せなかったのですが
記憶を呼び戻していると確かジャンヌ・モロー主演の「突然炎のごとく」の
終わり方に似ていると思ったのでした。
それはあくまで感覚的な印象なのでうまく表現できませんが
なにか似ていると思ったのです。
そこでネットで調べてみるとこの映画の監督もトリュフォーでした。
「アデルの恋の物語」もそうですがトリュフォーが描く映画は
抑えられた表現、展開の中で狂おしいほどの愛がテーマになっており
トリュフォーという人の優しそうな印象とは違い過激です。
かれの人生をウイキペディアで調べると彼自身が非常に繊細であるが故に
生き方も過激であったことがわかりました。
そこで思うのは表現者が
社会性のある制約の中で自分というものを表現する場合、
良くて60%ぐらいしか表現できないということです。
最近、巷では大谷翔平の大リーグでの活躍が取り上げられていますが
翔平の高校時代は監督から試合で120%の力を発揮させるには
180%の練習をしなければならないと言われていたそうです。
スポーツには自分の力を発揮させるために練習という手段があり
我々のような建築で表現を行っているものは100%の能力を
発揮させるためにどのようなことを行ったらよいのだろうかと
考えてしまいました。
トリュフォーのように生き方そのものを過激にはできないし-----。
草間彌生のように変なオバサンにもなりたくないし------。
そこで考えたのは、我々建築の世界ではこれまで造ってきた作品として
展覧会のようなものはありますが、これから表現したいものとしての
ファッションショーのようなものはありません。
施主もいないし、敷地もないけれどこんなものが造りたいという
ような表現の場があれば、創造的な訓練の場になるのではないか。
そこでは取りあえず社会的制約から解き放たれた過激性としての
表現を要求する-----–。
トリュフォーの映画を観てそんなことを考えさせられました-----。
     
5月の連休が終わり、みなさんはどのように過ごされたでしょうか?
ボク自身は例年に比べ、結構忙しく
1日も休みがなく仕事で慌ただしい1週間でした。
そんな中でも映画やテレビを観る時間はあって
以前録画していてずっと見過ごしていたフランソワ・トリフォーの
「暗くなるまでこの恋を」を観ました。
マダガスカルの東の洋上に浮かぶフランス領で農園を経営している
ジャンポールベルモントが結婚を前提にした文通で知り合った女性に
なり扮した美しい女、カトリーヌ・ドヌーブに騙され、
転落の人生を歩んでいく物語。
男が女に騙され転落していく映画では
過去に1951年のアメリカ映画で「黄昏」があり
地位も名誉もあったローレンス・オリビエ扮する支配人が
ジェニファー・ジョーンズ扮する女と知り合い、
立場が次第に逆転しどんどん落ちていくストーリーで
また、1931年度ドイツ映画「嘆きの天使」も同様で
マレーネ・デートリッヒ扮する踊り子に年を老いた英語の教授が夢中になり
転落していきます。
この三つの作品においてとにかく、カトリーヌ・ドヌーブの美しさは
群を抜いており、こんな女性だったら男は騙されているとわかっていても
全てを捨てることがあるのかもしれないと思わされてしまいます。
いっそ、巷で騒がれている財務省の官僚もセクハラと呼ばれずに
「自分はその女性記者が好きでした!」と言って
地位も名誉もすべて捨て転落していけば映画のような人生で
凄いと思うのですが-----–。
狂おしい愛情は古典的な映画になりますが、
現代では単なるストーカーとして扱われてしまい
愛の描き方がだんだん難しくなってきているように思います。
なぜか昔から、すべてを女のために捨て去ってしまう男の
ドラマチックな人生を描いた映画を観ていますが
映画とは様々な愛の描き方があり興味が尽きません。