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この「みんなの家」の経緯については、
伊東氏が著書「あの日からの建築」において詳しく語られており
以下、そこからの抜粋でご紹介します。

「みんなの家」は世界的建築家である伊東豊雄氏が震災後、
国内の著名な建築家たち(山本理顕、内藤廣、隈研吾、妹島和世氏)に声を掛け、
建築家として社会に対し何ができるのか、
復興についてともに考え、ともに行動するという目的で立ち上げた「帰心の会」という
集まりや幾度となく訪れられた現地の状況を通し、
画一的な仮設住宅での生活を余儀なくされている住民同士の
交流の場として提案されたプロジェクトで
第1号は熊本県のアートポリスによるコミッショナーをされているつながりにより
県の支援のもと熊本県産の木材などの提供によって宮城野地区に建設されました。

その後、「みんなの家」プロジェクトは、帰心の会が中心となり世界中から寄付を募り
ボランティアの方々の協力を得ながら展開されていました。

2012年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において伊東氏が
日本館のコミッショナーを務めることになった関係で
陸前高田市出身のカメラマンである畠山氏と知り合われ、
「ここに、建築は、可能か」というテーマで陸前高田市に敷地を選び
伊東氏が託した藤本壮介、平田晃久、乾久美子氏の3名の若手建築家の共同設計による
設計から施工までに至るドキュメントを展示することになりました。

3人の建築家は全てが流された場所において何をつくればよいのかディスカッションを
重ねながら地域にも足を運ばれていたようですが
核になる人が不在では、なかなか見通しを立てにくく難航していたようです。

そうしたなか地元で震災に合われ、避難所やその後の仮設住宅での住民間の生活を通し
みんなが集まる場所を模索されていた一人の女性と出会うことになります。

陸前高田の「みんなの家」プロジェクトはこの出会いにより大きく進展していくことになります。
改めて個の存在の大きさというものを感じさせられます。

我々旅人が日曜日の昼下がりに突然、何のアポイントもなく訪れ
外で黙々と薪割りをされていた方が菅原さんというご本人でした。

我々に気付かれ、外階段を使って上がった後、降りて中へお入り下さいと言われました。

らせん状に外階段で回りながら上がる途中に設置されたデッキからは、
津波で流された市内を一望でき、これから復興していく街の姿を見ることができます。

一番上のデッキをはしごで上がり、
何もかもなくなってしまった市内をしばらく黙って眺めた後、
下へ降りて中に入りました-----—

つづく-----------。

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