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約2年ぶりに千葉の住宅へ行ってきました。
鉄骨造3階建ての建物ですが、なかなか施工業者の見積もりが合わず
とても苦労しました。
遠方の監理で施主からの実費精算による交通費をできるだけ
抑えるために月2回から3回の監理で福岡~千葉間を往復しましたが
足りない部分はFAXやメールを使ってうまくいく場合と
そうはいかない場合があり難しいところです。

久しぶりに建物を見るといろいろな苦労が思い出され、いとおしくなりました。
生みの親としての気持ちが湧きあがってきます。

完成後、施主の方が外回りを時間をかけながら整備されとても嬉しく思います。

きょうはボクの誕生日でした-----–57才になりました-----–。
妻が仕事のため、帰りは行きつけの鮨屋に寄り自分にご褒美をして帰りました。

実は、このプロジェクトの経緯についての知識は事前に入れておらず
菅原さんという女性の存在も知らぬまま訪れ、
最初は管理人のおばちゃんと思っていたのですが
おはなしを伺ううちに只者ではないということがわかりました。
福岡に戻ってから、そういえば、半年以上前にミスターフローリングの平安さんから戴いた
伊東豊雄氏の「あの日からの建築」という本のことを思い出しました。

その時は伊東さんの写真を見て、
スタッフに「伊東さん、ジャガー横田の旦那の木下に似とうよねえー!」と見せて回り
全然読んでいませんでしたが-----–。

さて建物の中に入ってみると約8畳ぐらいのスペースにイス兼用の
丸太を輪切りにしたテーブルが中央に置かれており3畳くらいの小上がりと
キッチンがあるぐらいのコンパクトな広さになっていました。

菅原さんから出して頂いたコーヒーを飲みながら「あなたがたは建築の方でしょう」と
聞かれうなずくと「昨日も、妹島さんの知り合いがスイスから来られ、
自分が行けなくなったので平田くん案内してと言われ、平田さんが2名のスイス人を
連れて来られました。」と言われ
実は昨年のビエンナーレ金獅子賞受賞後、
世界中から何千人という建築関係者が来られ、
その応対で疲れたということを言われました。

そうしたなかでの突然の来訪で申し訳なく思いながらも
ここにこの建物が建ったきっかけについて尋ねると
震災後の避難所での生活からのはなしを伺うことができました。

突然の体育館での避難生活は
物資の不足、お風呂の問題、毎日のようにいろいろな問題があがるなか
まとめる人が必要だということで最初は、
男性の方で肩書を持たれた方がなられたそうですが
毎日のように来られるボランティアの方々に対する割り振り
毎日新たにあがってくる要望、問題に対し対応できなくなり
それまで男性を立てながらやってきた自分がみんなから言われ
まとめ役をやることになったそうです。
当時避難所では500名近くの人々が生活されており、
その方々をまとめていくことは並大抵ではありません。

(あらかじめ用意された組織の中で仕事をしてきた実績があっても
ゼロから組織を立ち上げる労力は別物で、もしかしたら別の才能が必要だと思いました。
後から、伊東さんの本で知ったことですが
菅原さんは震災前は理髪店を営まれていたようで
非常時に際してこの方にもともと備わっていた何かが発揮することになったのだと思います。)

やがてようやく仮設住宅ができ、避難所からみなさん移られましたが
やっと畳の上で足も伸ばせ、お風呂にも入れ、エアコンも付き
取り敢えず落ち着かれる所に住めるようになったにも関わらず
避難所での生活に比べ、みなさんが寂しいと訴えてくるようになったということでした。

そこでみんなが立ち寄れる場所を造ってあげたいと思うようになられ模索されている時に
同じようなことを考えられていた建築家の伊東氏に出会われたようでした。

「みんなの家」のプリミティブな形状は、一見して乾、藤本、平田の3人の建築家の
思考において藤本氏の意向が強く出ているように感じられたので主導は誰だったのか
聞いてみると、菅原さんははっきりと平田氏だと言われました。
海水に浸かった杉の木19本を選んだのも彼だったそうです。
ところが戴いた「みんなの家」の設計過程を記録したパンフレットを後で見てみると
3人の原案モデルの中において藤本壮介氏のモデルがすでに柱が林立する
プリミティブな形状で表現されていました。
どちらにしてもこれまで経験したことのない高いレベルでの共同作業だったのだと思います。

(左より平田案、乾案、藤本案)

菅原さんは震災が色んな人の意識を変えたが、中でも伊東氏は、
より高い意識のレベルになられたと言われていましたが
そう言う彼女自身もたぶん昔の彼女とは次元の違う領域に
入られたのではと思いました。
震災という未曽有の災害に対し、それが人の意識を変える大きなきっかけになっていると
話す彼女はあくまでとても前向きな方でした。

1時間近くお話を伺いながら現在の復興の状況などもっといろいろ聞きたかったのですが
旅先での予定もあり陸前高田を後にしました-----—。

ご支援のお願いについてはhttp:/rikuzentakataminnanoie.jimdo.com/

隣町の大船渡市へ向かう途中のリアス式海岸の風景は素晴らしく
この美しい自然を残しながら復興されて欲しいという気持ちになりました。

この「みんなの家」の経緯については、
伊東氏が著書「あの日からの建築」において詳しく語られており
以下、そこからの抜粋でご紹介します。

「みんなの家」は世界的建築家である伊東豊雄氏が震災後、
国内の著名な建築家たち(山本理顕、内藤廣、隈研吾、妹島和世氏)に声を掛け、
建築家として社会に対し何ができるのか、
復興についてともに考え、ともに行動するという目的で立ち上げた「帰心の会」という
集まりや幾度となく訪れられた現地の状況を通し、
画一的な仮設住宅での生活を余儀なくされている住民同士の
交流の場として提案されたプロジェクトで
第1号は熊本県のアートポリスによるコミッショナーをされているつながりにより
県の支援のもと熊本県産の木材などの提供によって宮城野地区に建設されました。

その後、「みんなの家」プロジェクトは、帰心の会が中心となり世界中から寄付を募り
ボランティアの方々の協力を得ながら展開されていました。

2012年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において伊東氏が
日本館のコミッショナーを務めることになった関係で
陸前高田市出身のカメラマンである畠山氏と知り合われ、
「ここに、建築は、可能か」というテーマで陸前高田市に敷地を選び
伊東氏が託した藤本壮介、平田晃久、乾久美子氏の3名の若手建築家の共同設計による
設計から施工までに至るドキュメントを展示することになりました。

3人の建築家は全てが流された場所において何をつくればよいのかディスカッションを
重ねながら地域にも足を運ばれていたようですが
核になる人が不在では、なかなか見通しを立てにくく難航していたようです。

そうしたなか地元で震災に合われ、避難所やその後の仮設住宅での住民間の生活を通し
みんなが集まる場所を模索されていた一人の女性と出会うことになります。

陸前高田の「みんなの家」プロジェクトはこの出会いにより大きく進展していくことになります。
改めて個の存在の大きさというものを感じさせられます。

我々旅人が日曜日の昼下がりに突然、何のアポイントもなく訪れ
外で黙々と薪割りをされていた方が菅原さんというご本人でした。

我々に気付かれ、外階段を使って上がった後、降りて中へお入り下さいと言われました。

らせん状に外階段で回りながら上がる途中に設置されたデッキからは、
津波で流された市内を一望でき、これから復興していく街の姿を見ることができます。

一番上のデッキをはしごで上がり、
何もかもなくなってしまった市内をしばらく黙って眺めた後、
下へ降りて中に入りました-----—

つづく-----------。

2日目は朝9時の便で仙台駅から新幹線に乗り、一の関で大船渡線に乗り換え、
海沿いにある気仙沼に11時に到着。
気仙沼市も震災で大きな被害を受けた都市ですが、駅前でレンタカーを借り
そこから海沿いに20km先の陸前高田市へ向かいました。

道路網はきちんと整備されておりリアス式の入り組んだ地形の山側を縫いながら進むと
右手前方に陸前高田市への入り口側入り江近くに
ニュースで報道されていた奇跡の一本松が見えてきました。
近くの専用の駐車場に車を停め、まだ十分に整備されていない順路に沿い
10分ぐらいで行くことができました。
一本松は白砂青松の高田松原として7万本近い松林があった名勝地に
震災による津波で奇跡的に1本だけ流されず残った松で
塩害による壊死によって再生不可能と判断され人工的な防腐処置がなされ
保存が決まったものです。

遠くからもよく目立ち、非常に高さのある松で、震災前の写真を見ても
松林の中から1本だけ抜きん出て高く伸びているのがわかりました。
現地へ行ってわかるのは、一本松の前に廃墟と化した
鉄筋コンクリート造2階建てのユースホステルがあり、
この建物によって津波の衝撃が少し緩衝されたのではということが理解できます。

台風27号がそれた空は、どこまでも澄んだ青さで、見上げると、
この空をバックにして立つ一本松は
町の復興に対しこれからの勇気を
きっと与えてくれるという思いが込み上げてきました------。

街中に入ると、と言ってももう街と言うものが全く無くなっている状態であり
この地域の被害の深刻さをまざまざと知らされます。
また、改めてここに住まわれていた2万3千人の住民の方々が、
いまだに避難生活を強いられていることがわかります。
下の写真の3階建て鉄筋コンクリート造上部搭屋にブルーのラインで
津波の到達高さが示されていました。
恐ろしいまでの高さです。

なにもない道路をしばらく走り回っていると
遠くの山裾に砦のように建っている建物が見え、
それが昨年ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞を受賞した
避難生活を送られている方たちのための集会施設だということが
すぐにわかりました。

つづく-----–。

  

東日本大震災後、2年7か月ほど経ちましたが
民主党から自民党安部政権への政権交代により、
デフレ脱却を狙ったアベノミクスの提唱後、
世の中の風向きが少し変わってきたように感じていたなか
東京オリンピックの誘致決定はとてもインパクトのある出来事で
今後、一気に震災復興を含め、経済の動きが大きくなるような気がしてきました。

そこでかねてから行きたいと思っていた東北の震災地域の状況を
限られた期間ではありますが見ておこうと思い立ち、
休暇を取った妻とともに2泊3日の東北の旅をすることにしました。

2泊3日とは言え、結局前後の日程は半日が移動時間に取られるため
実質、見れるのは真ん中の1日しかありません。
仙台には、当アトリエ出身の藤山さんが東北大学の環境科学研究科に助手としているので
事前に情報について彼女に聞いてみました。

そこで1日目は、空港に3時着のため、タクシーを利用して空港周辺の
閖上地区の状況を見て回ることに。
タクシーの運転手さんからは当時の状況や現況について詳しくお話しを伺いました。
空港について驚いたのは空港の壁に表示してある津波の高さで
当初、映像では空港の滑走路を軽飛行機や自動車が流されていくシーンを見て
深くは見えなかったのですが、表示されている高さは5mほどもあり
意外と高いことがわかりました。

閖上地区は空港から車で15分ぐらいの海岸沿いにある場所で
漁港や商店街、新興の住宅地があったところだそうですが
今現在においてもまだ手つかずで何もかもが流された状態のままになっていました。

ほとんどの家が流されたなか、いくつかの住宅が流されず廃墟の状態のまま
いまだに放置されています。

かつてはこの写真にあるようにたくさんの住宅が立ち並んでいた場所だったようですが—-。
仙台空港がある名取市周辺は岩手県のリアス式海岸沿いの地域とは違い
山が接近しておらず、高台もない平野部のためか
見渡す限り流され、復興も進んでいない状況で
塩水を被った農地では土の入れ替えによる除塩作業が
あちこちで行われていました。

2時間ほど見て回り、仙台駅横のホテルに荷物を置き藤山さんとの待ち合わせ場所に。
渋めの一杯飲み屋で「源氏」というお店に連れて行ってもらいました。

割烹着を着た女将がいて、むかしの文豪が飲みにくるような激シブのお店でした。
藤山ちゃん!ありがとう

つづく-----–。