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2010.02.27

練り物と建築

知り合いの女性に練り物をほとんど食べない女性がいます。
彼女の母親は料理人で昔から新鮮な食材のおいしさをストレートに活かしたものとして
食してきたので、結果的に練り物はあまり食べないということでした。

ぎょうざやハンバーグなど練り物大好き!のボクにとって、彼女の食に対する
自然なこだわりは、レベルの高い食文化に接してきた結果でもありますが
こんな庶民的味も理解してほしいと思っていました。

先日、とあるブログに練り物の話があり、著名な和風料理の料理人が言うには
練り物は、やはり邪道だそうです。
どういうものが混ぜてあるのかわからない、ある意味で素材の悪さをごまかせやすい
という部分において、ネタで勝負する、ネタを活かすという本道から外れるのかもしれません。

そこでそのブログでは、それを建築に置き換え、スケルトンとブラックボックスという関係で
論じていました。
スケルトンはすべてが明快で隠し事がない素材感があるのに対し、
いろんなものをブラッックボックス化して隠してしまっているのはハリボテだと。

コンクリートの構造を打ち放しとしてコンクリートらしく表現することも
そんな価値観に基づくもので、鉄骨造の建物を薄く軽快に鉄骨らしく見せることも
そういうことになります。
素材をごまかさず最大限、素直により良く表現することは、構成も含め相変わらず
現代建築における王道といってもいいかもしれません。

実はこのごまかさずに最大限より良く見せることがどんなに難しいことか
和食の世界で考えてみると良くわかるのではと思います。
理解していても才能がないとできないのです。
建築においても同じように難しいことです。
建築にはいろんな機能が要求されており、食の世界の比ではないほど
これを貫くことには、強靭な意志と感性と技術がいるのです。

したがって建築における正しい評価をきちんと得ようと思うものは、
原点で勝負することをお勧めします!
そうすれば、必ず一定の評価を勝ち取ることができます。

ただ、いつまでもこのアプローチが本物の建築という評価軸では
建築家としての評価が上がるほど、どんどんソリッドになっていく。
それはこれまでの変わらない評価軸の一つであって
もっと違う評価軸の確立はできないものだろか?
評価軸の少なさが結局、地方でしかないという悔しさを感じるのですが。
もっと多面的評価軸の多さが必要だと思います。

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